TBS♪Tokyo Band Stalker

もしも好きにならなければ 幸せに過ごせたのに

「水は海に向かって流れる」の主題歌がスピッツ「ときめきpart1」で良かったありがとう

水は海に向かって流れる

 6/17(土)に主題歌目当てで見た結果、だんだん原作にも食指が動き6/25(日)に電子書籍をセットで購入し6/26(月)には全巻読破しました。

 同じ広瀬すず主演でも、「先生!」の時は「原作読もう!」とまでは思わなかったので、我ながら映画を見終わった後に原作購読欲が出たのは驚きでした。掲載誌が自分にとって比較的とっつきやすい少年誌での作品だったからかも知れませんが。

 勿論原作必須という訳でもないのですが、映画と原作両方履修する事で主題歌「ときめきpart1」の理解がより深まった気がします。

 

 映画にしろ原作漫画にしろ「あー面白かった!」とすっきり面白がれる作風とは異なりますが、こうやってひとつの媒体で摂取し終わった後で他媒体に触れたくなったりあーだこーだと考察(妄想)したくなるタイプの面白さを味わう事が出来ました。

 

 「先生!」のピュアピュアJK→「なつぞら」の10~30代(農業高校生~フルタイム子育てアニメーター)ときてこの映画で「暇つぶしにパチンコする料理はじめ家事動作が全部雑で乱暴な娯楽の少ない地方都市限界OL」を演じる姿を見られたのが、背徳感込みの新鮮さを感じてその姿を堪能する為だけに見るのも全然アリだなと思いました。

 

 スピッツブリーダー的には「颯(はやて)」と「楓(かえで)」の兄妹や、主人公の直達くんの父親が「達夫(たつお)」という名前にこっそりニヨニヨしてしまうのではないでしょうか。*1で、映画なら大体ラブストーリーでタイアップがくるので「まあ分からんでもない」位に捉えていたのです。

 そんな気持ちを抱えたまま映画館に行きましたが、映画を最後まで見ると「水うみ」も「ああ、この映画にはスピッツしかないわぁ」と思わされるのです。

 他の作品はまだまだ履修してないので多分ですけど、完全なる純愛ならスピッツが主題歌である必要はないのだと思われます。

 ドラマ等他の映像媒体はさておき。スピッツが実写映画の主題歌を務める必然性。

 それは、「インモラルな要素を含んでいる事」なのではないでしょうか。

 直達くんと榊さんを繋ぐ過去の出来事は、丁度ワイドショーで取り上げられていた件に重なります。大人達の「ときめきpart2」によって傷つき「ときめきpart1」を十年も自発的に遠ざけた榊さん。記憶はないものの無意識に「良い子」にならざるを得なかった直達くん*2。本人達には何の落ち度もないのですが、出会うきっかけがインモラルというか。インモラルな開始点から「ときめきpart1」が生まれるねじれ。

 私が見た他の映画でも、インモラルな部分が見受けられます。

 「教師と生徒の恋愛」を扱った「先生!」はインモラルとしか言いようがないです。「昨日何食べた?」のシロさんとケンジは同棲する同性カップルであるだけで別に何の罪もありませんが、世間にはそういう関係をインモラルだとみなしている人もいる(そもそもシロさんがものすごーく世間体を気にしていると見受けられる)雰囲気です。

 もしかすると純度100%のラブストーリーでスピッツが主題歌をやっているものが有るかも知れませんが、どちらかというとスピッツの音楽性にも通じる何かしらの毒が混じっている気がします。

 

 この仮説についてはまだまだ研究が足りていないので、今後の課題とさせてください。

 

 と言うわけで主題歌の側面から「水は海に向かって流れる」の映画について考えてみました。題材が重いのでデートムービーの皮を被った何かと化していますが、その正体についてを考えたくなり最終的に原作へ手が伸びる映画でした。

 拙文をお読みくださりありがとうございました。

*1:アルバム「インディゴ地平線」収録「ハヤテ」、アルバム「フェイクファー」収録「楓」。スピッツとの関連性が高い作品の人物名に「楓」使いがち説。そしてスピッツのドラマーは﨑山龍男(さきやまたつお)))

 

 

 +++++以下映画と原作のネタバレあり+++++

 ※主題歌「ときめきpart1」を軸に、かなり無理矢理な解釈を繰り広げています。ご了承ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実は映画は原作未読ですら「え!?そこがラストシーン!?」となる終わり方。

 ティーン向け青春映画にあるまじきラスト、かも知れません。

 そのせいで余計に原作が気になって一気読みしてしまったというwうーん見事な戦略です。でも、原作を最後まで読むと分かる事がひとつありまして。

 原作を最後まで映像化してしまうと、恐らく「ときめきpart1」は主題歌として成立しなくなってしまうのですよね。ネタバレになってしまいますが、原作最終話だけは一気に時間の経過があります。物語そのものはこの話を以て(直達くんと榊さんに関しては)ハッピーエンドめでたしめでたし……これが映画化にあたり最終話の一話手前終盤~最終話がまるっとカットされまして。ある意味「中途半端」と言われても仕方ない所で映画は締めくくられます。

 しかしながら、原作どおりにせずそこで終わらせないと「ときめきpart1」ではなく「ときめきpart2」になってしまうというか。私はこの話を「親世代の『ときめきpart2』に振り回されて『ときめきpart1』を経験する機会を奪われた子供世代の物語」だと解釈しまして、原作最終話の部分は「ときめき」ではあっても「ときめきpart1」ではなくなってしまう故に映画は「結果」をばっさり落としたのかなと考えた次第です。

 

 「水うみ」原作最終話での顛末は「先生!」の映画と共通する部分がありまして、どちらも「期間をおいた上で相手への恋心が持続している事を確かめてから、恋人関係になる」というプロセスを踏んでいます(「水うみ」だと一年、「先生!」だとヒロイン・響の高校卒業まで)。

 頭を冷やしてもその恋は本物か、スピッツ風に言うと「醒めないまま」か。醒めずにいられる限り、想い合う二人は堂々と恋人を名乗れるのでしょう。

 でも「ときめきpart1」が「醒めな」ければ、それは「ときめきpart1」で居続けられるのでしょうか。「初めての恋」である事は必須条件として、どこまで「part1」と呼べますか。そもそも両思いが成立したら、違う名前を与えた方が相応しいのではないのでしょうか。或いは片思いをひたすら続けていては、別の執念と区別が付けられなくなってしまうのではありませんか。「ときめき」とは一体何でしょう。part2はpart1と比べて、必ずしも唾棄されるべきもの?「ときめき」は罪になりますか。

 

 

 直達くんの「ときめきpart1」が最高潮にきらめく瞬間があのラストシーンであり、きらめかせた結果が判明する瞬間に直達くんの「ときめきpart1」は消失してしまうからこそ映画では「結果」にあたる原作ラスト2話終盤~最終話を描かない事にした……なんて考えてみたり。

 

 

 

 本筋よりも主題歌の話ばかりしていますが、起点は「この映画は何故スピッツがわざわざ主題歌を書き下ろしているのだろう」という疑問を持った事です。

 スピッツブリーダー歴二十年超えを自負するわたくしですが、タイアップ先のチェックは今までおろそかだった為まともに見ていない映像作品が山ほど残っています。

 近年は割と映画館に足を運んだりドラマを見る様にしていますが、そこで気になってくるのは「何故この作品の主題歌や挿入歌をスピッツにお願いしたのだろう」という事。勿論商業音楽作家として草野正宗がきっちり仕事をしているのは大前提です。それでもブリーダー的には作品と曲がベストマッチである確証が欲しいのです。

 

 「水は海に向かって流れる」の場合、映画をちゃんと見るまでぱっと見では必然性が見えていませんでした。広瀬すず繋がり((2017年「先生!…好きになっても、いいですか?」、2019年「なつぞら」はそれぞれスピッツの「歌ウサギ」「優しいあの子」が主題歌

*2:余談ですが、原作だと茶髪でぼさぼさしたいかにも男子高校生というややチャラ目の外見に対し映画の直達くんは黒髪かつ軽くキノコ頭です。これは「良い子」感を強調する為の変更なのかなと推測します。「良い子」の呪いを掛けられた直達くんが彼なりにグレる事で「良い子」の呪いを断ち切る話でもあるのかなと。そのグレ方も「良い子」らしい所がミソです